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関ヶ原ウォーランドへ行ってきた!|関ヶ原の戦いを時系列で解説

2018年10月18日に出かけてきました。

(基本情報)
住所:不破郡関ケ原町関ケ原1701−6
TEL:0584-43-0302
営業時間:10時~16時(2・3月の平日は~15時)
定休日:12月31日、臨時休業あり
料金:大人500円、子ども300円、幼児無料
駐車場:無料(150台)
所要時間の目安:30~50分
関ヶ原ウォーランド公式HP

アクセス

等身大の武者像が248体も!

アクセスに関しては自家用車が一番簡単です。

駐車場は無料です。

こちらが入口。

ウォーランドには等身大の武者像があちこちに置かれており、なかなかの迫力です。

武者像の目の前に立つと、なお一層の迫力が感じられます。

そして、園内では壮絶な戦いが繰り広げられていました。

惨状を見かねて、武田信玄の亡霊がノーモア関ヶ原合戦を訴えていました。

子どもの遊び場は?

ウォーランド内では、おそらく小さな子は楽しめません。

一応、このような顔出しや、小さな木製ブランコはありますが。

ここは、大人が歴史を楽しむためのところなのです。

関ヶ原の戦いはなぜ起きたか?

関ヶ原の戦いが勃発したのは1600年。

それ以前は、豊臣秀吉が天下を統一していました。

しかし豊臣秀吉が1598年に死去すると、家督を継いだのが秀頼(1593年生まれ)ですが、当時の年齢は5歳。

幼い秀頼に代わって政務を行っていたのが五大老、すなわち、徳川家康、前田利家(まえだとしいえ)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、毛利輝元(もうりてるもと)の5大名でした。

また、五大名とは別に、五奉行という役職もあり、五奉行の筆頭が石田三成でした。

そして、秀吉没後に発言力を増してきた徳川家康と石田三成との対立が深まり、関ヶ原の戦いが勃発することになります。

五大老のうち前田利家は1599年に死去。

また、上杉景勝は別の戦のために関ヶ原の戦いには参加できませんでした。

徳川家康を除く五大名の残り2人、宇喜多秀家は西軍につき、毛利輝元は西軍の総大将になります。

ここまでは石田三成の思惑どおりに動き、西軍優勢だったと言えるでしょう。

ウォーランド園内マップ

関ヶ原の戦い開戦時には、西軍は鶴翼の陣を築き、戦略的にも、兵力の面でも東軍よりも優位に立っていました。

ウォーランドでも、まず最初に、この鶴翼の陣を見て回るのがおすすめです。

ウォーランド内における、それぞれの部隊の位置については、こちらを参考にしてください。

まずは西軍「鶴翼の陣」を見よう!

最初に、「鶴翼の陣」を見るために、順路どおりに進んでみましょう。

小早川秀秋が陣取ったのは松尾山(標高293m)。兵力は15,000でした。

順路どおりに進めば簡単に見つけられます。

小早川の北西部に位置していたのが大谷吉継(異名:大谷吉隆)。兵力は3,000でした。

順路に従って進んでいきます。

大谷吉継陣の北側に位置していたのが宇喜多秀家の陣です。兵力は17,000。

宇喜多陣の北東に位置していたのが小西行長陣です。

小西行長陣の北東に位置していたのが島津義弘陣です。

これら西軍の陣を見る限り、地の利を活かし、鶴翼の陣によって東軍を撃退しようといた西軍の布陣は完璧とも言えるものでした。

福島正則隊による開戦!

西軍の鶴翼の陣を見学したところで、続いて東軍の様子を見てみましょう。

関ヶ原の戦いは、福島正則の部隊が、宇喜多秀家の部隊に鉄砲を打ったことで勃発します。

そのため、ウォーランド内でも福島正則の位置をまず確かめましょう。

続いて確かめたいのが井伊長政軍です。

真っ赤なのぼりが上がっているのですぐに分かります。

そして、石田軍に対峙していたのが黒田長政と、細川細川忠興の軍です。

そいて、後方に徳川家康の軍がありました。

東軍の背後に位置した西軍の諸隊

西軍の鶴翼の陣と並び、東軍への攻撃に欠かせない諸隊は南宮山に陣を構えていました。

西軍の総大将・毛利輝元によって任を託されたのが毛利秀元です。

ウォーランドでは入口を入ってすぐ右手の土手の上に配されています。

そして、笹尾山には石田三成陣がありました。

これら西軍の陣を見れば、東軍が袋のネズミと化し、西軍が圧勝になるのは目に見えているようでした。

しかし、実際にはそうはなりませんでした。

小早川秀秋の裏切り

ここからは、石田三成の視点から関ヶ原の戦いを眺めてみたいと思います。

福島正則隊からの宇喜多秀家隊への攻撃によって戦いの火蓋が切られ、当初は石田三成のもくろみどおりに西軍優勢で戦いが進んでいました。

南天満山に陣していた宇喜多秀家隊は総勢17,000。

一方、福島正則隊の兵力は6,000。

午前8時に戦闘が開始されましたが、当初は宇喜多隊が優勢でした。

同様に、大谷隊や小西隊も善戦し、東軍は押され気味でした。

一方、石田三成の再三の要請に応じなかった部隊がいくつかありました。

その1つが島津義弘隊です。

島津隊は井伊直政らの攻撃にあって初めて交戦状態に入りました。

さらに、全く動こうとしなかったのが南宮山に陣取っていた毛利・吉川・安国寺ら3万もの兵力です。

そして西軍の敗北を決定づけたのが、小早川秀家の寝返りでした。

15,000もの兵力を有していた小早川秀家は、西軍につくか東軍につくか決めかねていましたが、正午過ぎについに大谷の陣地へ流れ込みました。

大谷隊と小早川隊との死闘が繰り返されることになりましたが、脇坂隊なども加わり三面攻撃を受けるとついに全軍壊滅しました。

小早川隊らの寝返りによって西軍は総崩れとなります。

当初有利に戦っていた宇喜多隊も敗退します。

北天満山に陣していた小西隊も総崩れとなりました。

島津隊も小早川隊に側背をつかれ、部隊のほとんどを失いました。

笹尾山に陣取っていた西軍の主将石田三成隊は、開戦直後には善戦していましたが、最後には東軍の集中攻撃を受け、戦いに破れました。

ウォーランドでは関ヶ原の戦いを学ぶ、いい機会になりました。

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