突如として姿を消した下之郷遺跡。
全国各地で環濠集落が衰退していく中、弥生時代後期に突然現れた国内最大級の集落。
それが今回の記事で紹介する伊勢遺跡です。
1900年前、突如として現れる巨大集落
伊勢遺跡の場所については下記のマップを参照してください。
伊勢遺跡は昭和55年に発見された弥生時代後期の集落跡です。

南北約400メートル、東西約700メートルの国内最大規模の集落で、これは下之郷遺跡の約4倍もの広さです。
残念ながら現地には、資料らしいものはほとんど何もありません。看板がある以外はただの空き地です。
伊勢遺跡はどのような集落だったのか?
これが当時の集落の想像図です。

正面には三上山がそびえています。
上の図の中央を拡大してみます。

ここは「方形区画」と呼ばれ、政治を行った場所と考えられています。
伊勢神宮の正殿に似た祭殿
「方形区画」を含んだ集落を取り囲むように、大型建物が約18メートル間隔に円周上に計画的に配置されています。

これらは祭殿であると考えられ、その建物形式は伊勢神宮の正殿に似ています。
当時、すでにこれほどの高度な測量技術があったことにビックリですね。
また、この円周の外側では、弥生時代後期では国内最大級の超大型竪穴建物も見つかっています。
面積は185平米メートルもあり、伊勢遺跡の王が住んでいたのではないかと考えられています。

さらに、吉野ヶ里遺跡で復元されている「楼観(ろうかん)」に似た多層構造の建物もあったと推測されています。
これは、遺跡のほぼ中央に配されていました。
このような高度な建築技術は、中国大陸にルーツがある可能性を示唆しています。
遺跡内で土器などの遺物があまり見つかっていないことから、この集落は、生活の場というより、政治や祭りを行うところだったようです。
三上山に神様が降臨 !?
最後に、この集落の正面にある三上山についても触れておきたいと思います。
三上山は「御神山」とも呼ばれ、三上山のふもとにある「御上神社(みかみじんじゃ)」の社記には次のように書かれています。
「天之御影神は今から2千2百余年前の孝霊天皇6年6月18日三上山に御降臨になったので神孫の御上祝等は三上山を神体山として鎮祭申上げた」
天之御影神(あめのみかげのかみ)は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫で、鍛冶の神・刀工の神とされています。
この社記が正しければ、この伊勢遺跡でも三上山を神体山として崇め祀っていた可能性が高いように思えます。
伊勢遺跡と邪馬台国・卑弥呼との関係は?
『魏志倭人伝』によれば、弥生時代後期の起源1世紀末から2世紀末にかけての日本は30あまりの「國」に分かれていたとされています。
琵琶湖南部には野洲川流域を統合した「國」があったと推測されており、その中心が伊勢遺跡だったと考えられています。
しかし、この時代はこれらの國も統合されていく時代にあたり、その後、さらに1つの国へ統合されていったと考えられています。
2世紀末に突然姿を消した伊勢遺跡。
それはまた、日本最大の銅鐸などが野洲の大岩山に埋められた時期と重なります。
ここからは推測の域を出ませんが、下之郷遺跡のような環濠集落は、各地を治める「國」の出現によりその役割を終え、伊勢遺跡に代表されるような平和的な連合体へと遷っていったものと思われます。
しかしその後、主導権争いが激化し、倭国大乱(わこくたいらん)が発生します。
その結果、卑弥呼を擁立し、邪馬台国が誕生します。
上記のように仮定すると、伊勢遺跡と邪馬台国誕生との間にはタイムラグが大きいため、両者の直接的な関係はない、ということになってしまうのですが。
いずれにしても、伊勢遺跡が歴史上も重要な位置にあることだけは確かなので、今後の歴史研究の行方を注視したいと思います。